長い一日

今年は墓参りもせず、仏壇に手をあわせただけで、盆を過ごした。

母が亡くなって、7年以上も経った。

最近は、仏壇を拝むときも、自分や家族のこともお願いしたりして、すっかり仏様扱いである。

母は、のんびりしているというか、ぼーっとした人だったから、

「とんでもなく長生きするに違いない」と思い込んでいたが、癌を患い、七十になったばかりの年に逝った。

 

亡くなる前の数ヶ月、いつ見舞いに行っても、母はうつろな目で天井を見上げるばかりで、

話しかけても答えはなく、ただ傍らで時間が過ぎるのを待っていた。

治る見込みのない病気とわかって、母は精神を病んでいた。

差し入れの冷たい水やジュースを枕元に置いては、

暖かくなった封の空いていないペットボトルを持ち帰る日々だった。

母に残された時間はいくらもなかったが、天井を見つめるだけの母の一日は長かった。

母の時間がこのまま尽きていくのを、端で見るのは辛かった。

 

それまでの自分は医者の立場で、癌の末期の患者さんに、

「残された時間を好きなように使ってください。温泉にでも行って、おいしいものを食べてください。」

などと、わかったようなことを話していた。

しかし、患者さん本人に、温泉に行く体力や気力は残っていないし、

家族も自分の生活が精一杯で、親の介護まで手が回らない。

そうして、天井を見つめるだけの一日が、最期の日まで続いていく。

 

母を看取ってから、医者として、患者さんを長く生かすことだけでなく、

いかに生かすかという宿題をもらった。

患者さんの一日は長く、残された人生は短いことを、私は知っている。

 

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