自然な死は餓死ではない

認知症が進行すると、すべてのことに関心がなくなってくる。

自分からすすんで何かをする意欲が低下して、趣味などの楽しみにも興味がなくなり、まわりへの関心がなくなってくる。

日常生活が面倒くさくなり、うちの中に引きこもり、一日中何もせずに過ごすことが多くなる。

こうした状態をアパシー(無関心)という。

 

さらに進行すると、食事さえも食べなくなってしまう。

食物を口に近づけても、口も開かない。

口の中に入れても、飲みこまない。

こうなると、いくら飲みこむ訓練をしてもなかなか効果がない。

 

食事をさせずに餓死をさせるのは可哀相というご家族のお考えもあるでしょうが、

私は、認知症の患者さんが食事をせずに迎える死を餓死とは考えていません。

 

餓死は、食事をしたい人に食事を与えないことで、

食事をしない、そもそも食事を認識できない人に、食事を与えないことではないと考えているからです。

 

食事を受けつけないということは、老衰による自然な死であって、餓死ではないと思います。

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3 件のコメント

  • 医知場先生、深いですねー。私もそう思います。何かの雑誌に書いてありました。昔の人間は枯れるように亡くなっていったと。胃ろうや点滴が存在しなっかた頃は、無理やり栄養水分補給をする事もなく、自然に枯れるようにお亡くなりになっていた。それがその方の自然な寿命なのだと思います。

  • 追記。確か医学雑誌で拝見した在宅専門で多数の患者さんを看取られた先生の手記だったと思います。胃ろうやIVHをせずにお亡くなりになったご高齢の患者さんの死は、痛みを上手くコントロールすれば穏やかで枯れるように自然に死を迎えられる方が多い様に思われたというような内容であったかと思います。在宅を依頼された時点で既に退院前に胃ろうやIVHが導入されていたりすると在宅医としてはその状態で引き継ぐ事になります。本人、家族の意志やその後の経過などをしっかり説明してから行っていただきたい処置ですね。これは最近、人工呼吸器を導入された90歳男性のご家族から受けたご相談です。重症の糖尿病及び合併症があり、肺炎を起こして救急車で運ばれて、なんの説明もないまま、ご家族は外に出てくださいと言われ、再び呼ばれた時には人工呼吸器が既に取り付けられており、お盆前になって人口呼吸器を取り外すか続行するかと選択を迫られたそうです。本来なら取り付けるときに、選択して頂くのが普通だと思うのですが、、、、。

    • みんみんさん、コメントありがとうございます。

      救急車でERに運ばれた場合、救急医としては蘇生処置を行わざるを得ません。
      そもそも蘇生処置を希望しない場合は、救急車を呼んで、救急病院に行くことを控える必要があります。
      そのためには、生前に、自分で判断がつくうちに、家族や代理人に意思表示をしておくことです。
      こうした意思表示を事前指示といい、欧米ではかなり普及していますが、日本ではまだまだという段階です。
      自分の死に方は、自分で決めるという合理的な考えを日本人も持つべき時代だと考えています。

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